元弘三年(1333)専横の北條幕府を倒し、建武中興をなしとげた後醍醐天皇は
足利氏との争いのため京都を逃れ延元元年吉野へ幸行以来吉野行宮に過された
当山は叡信特に篤く吉野朝の勅願所となった。 延元4年(1339)天皇は病床に
つかれ「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望
まん」
と詠み都を憧れつつ、ついに崩御された。天皇の御遺骸をそのまま当時
の裏山に葬られたのが塔尾陵である。次帝後村上天皇の正平二年12月27日 (13
47)
楠木正行公の一族朗党一四三人が四條畷(大阪府)の決戦(足利武将高師直
との戦)に向かう に当たり吉野の皇居に天皇と今生の別れを告げ先帝の御陵に参
拝の後如意輪堂に詣で髪を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を残し最後に正行公
は鏃をもって御堂の扉かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る
名をぞとゞむる
 (今度の戦いは生きて再びかえれぬ身であるが故に亡き人の仲間入りをする名前
を残して出発しますとの意)
と辞世の歌を残して四條畷に向かったが衆寡敵せず弟正時
と共に最期をとげた。現在の如意輪堂は慶安三年(江戸時代)の再建で当時の扉
 は現在宝物殿に保存されている。






 御堂の扉に辞世の歌を刻んでいる屏風絵








          御堂の扉