金峯山寺の沿革

桜の名勝地で知られる吉野山は、吉野から大峰山山上ケ岳にかけての一帯を金峯山
(きんぷせん)と称し古代より世に広く知られた聖域でありました。
この金峯山に白凰年間(7世紀後半) 、修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ・諡号神
変大菩薩)
が修行に入られ、一千日の苦行の末、修験道独特のご本尊金剛蔵王大権現
(こんごうざおうだいごんげん)を感得されました。そしてこの姿を桜の木に刻んで、
山上ケ岳(山上蔵王堂)と山麓の吉野山(山下蔵王堂)に祭祀されましたのが、金峯山
寺の始まりと伝えられています。
それ以来、金峯山寺は修験道・山岳信仰の根本道場として栄え、平安時代には
金峯山詣(御嶽詣ーみたけもうで)が流行し、鎌倉時代末には後醍醐天皇が南朝を営
まれるに及んだのです。 江戸期になると、庶民の信仰が盛んになり山上参りの講
が各地に組織され、沢山の人々が訪れますが明治維新後、一山は大法難に襲われ、
維新政府は神仏分離を断行して修験道を禁止するに至り、寺内の寺々が取り壊さ
れるなど未曾有の大打撃を受けたのです。 明治19年羽黒山や英彦山など日本国
中の多くの霊山が神社化した中、奇跡的に金峯山寺は天台宗末の仏寺として復興
します。第二次大戦後の昭和23年、金峯山寺は修験道本来の姿に立ち帰るべく 天
台宗から独立、金峯山修験本宗を立宗し、そして在家信仰の実践を推し進める新し
い修験本宗の総本山として今日に至っているのです。




●蔵王堂

●金峯山寺と桜

●脳天大神(のうてんおおかみ)


吉野の行事

蔵王堂(金峯山寺本堂)
        国宝

吉野山のシンボルとも言うべき蔵王堂は、重層入母屋造り・檜皮葺き・高さ34m・四方36m、
木造建築物としてわが国屈指の大伽藍です。堂々とした威容の中に優雅さがあり、たいへん
勝れた建築と高い評価を得ています。役行者創建以来、蔵王堂は幾度かの焼失と再建を繰り
返し、現在の建物は天正20年(1592)頃に再建されたものです。
堂内におまつりする3体のご本尊は秘仏で、各尊とも7mを越える巨像であり、その本尊を納
める大厨子は日本一と言われておいます。また堂内には68本の丸柱があり、中でもツツジの
大木は珍しく有名です。




金峯山寺と桜
“昔誰かかる桜の種植えて
    吉野を春の山となしけん”
       -京極良経-


吉野山が日本一の桜の名所となったのは、金峯山寺蔵王堂の本尊、金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)に由来しています。 役行者は金峯山で感得された金剛蔵王権現を山桜の木で刻み、蔵王堂の本尊とされました。このため吉野山の人々は山桜を権現様の御神木として、大切に愛護しました。吉野山の桜は蔵王堂の参詣者が心の依り所、心に安らぎを与える信仰の証として献木されたもので、それだけに町人の桜に対する関心は非常に深く、昔は「一枝を伐る者は一指 を切る」というきびしい掟があったとも言われてきました。 吉野山の桜は、単なる観光のための植樹でなく、蔵王権現に対する真剣な信仰 の結果であり、そういった事を心において吉野の桜を観賞していただくとあわい桜花の奥にこめられた本当の美しさ、深い趣きに触れる事ができるでしょう。

脳天大神
古くから蔵王堂から約500m下の谷
間に昔から龍神を祀る小さい社があ
りました。昭和28年、五條覚澄初
代管長(脳天菩薩僧)が蔵王権現の霊
示を受けてこの地に龍王院を建立し
て、脳天大神をお祀りしたのであり
ます。以来首から上の病気に霊験あ
らたかと日に日に参拝者が増加、最
近では入学試験合格・病気全癒・商
売繁盛祈願のために、北は北海道か
ら南は九州、沖縄までまた遠くハワ
イからまでも参詣者が後を断たない
ありさまで、多くの方々がご利益を
頂かれております。
毎月1日、19日と毎週日曜日、祝日
には午後1時より護摩供祈願を行っ
ており、受験生を始め、首から上の
病気で悩む人々の願いに応えていま
す。